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孤独になることを勧める理由

「孤独」と字面だけみると寂しい感じがしてしまうけど、よく考えるとそんなことはないように思います。むしろ孤独は生きて行くのに必要とさえ思います。その理由を説明したいと思います。

まず、「孤独」であることは、自分と向き合うことです。物理的に一人であるとき、人は孤独であると言えます。何をするにも自由な時間に、何をしても良いのですが、その時にふと自分のことを考えることがあるでしょう。これは自然発生的に起こる心の現象だと思っていますが、ふと自分の過去現在未来に関して考えている自分に気づくことがあります。何もしていない時にこういった思考が発生することはごく自然で、自分の存在を自分に問いかけている状態です。ある意味自分と対話をしているのだと思います。今の自分に語りかけ、自分の過去を省みて、未来の自分を思い描いています。自分はどういう存在かを自分に問いかけているのです。この時に自分は自分とともにいます。それは一人ではなく、自分といる状態なのです。思考が深まり、能動的に情報を整理して行く過程です。その間、人はものを考えることができています。孤独な時には自分と向き合っています。

物理的に人といると、自分に対する自分の思考は難しくなります。他人がいるわけですから、自分のことばかりをどっぷりと考えている暇はありません。お互いに無言同士で、何もしていなければ可能ですが、そういった状況は少ないでしょう。そうすると人といる時に自分とは向き合えません。人といる時に自分に対する問いは発生してこないからです。それよりも他人を意識した行動が主でしょう。他人の問いかけにリアクションしてコミュニケーションをとらなければなりません。協調にリソースを割かれるというのが現実でしょう。そのなかでは、精神的に孤独となることを念頭に置けば、ある程度は思考できるでしょう。つまり、相手に合わせ過ぎずに自分の答えに率直になることです。相手に対するリアクションとして、自分は率直な答えを出すことです。自分との対話が瞬時に行われて、自分の本当の考えを知ることができる場合があります。相手に合わせてばかりいる場合は、人と一緒にいたいという思いが強く、意思が歪められてしまうことがあります。しかし心に孤独を持っていれば、その頻度も減ることでしょう。そして、思ってもみなかった考えに気付かされるのです。 

 物理的に一人でいる時に、人と一緒にいたいと思うと現代ではいくらでも人とコミュニケーションがとれる時代になっています。Web技術とSNSが発達しているので、無意識にタイムラインライを目で追っているということも少なくありません。そのため孤独の時間は徐々に減りつつあります。一人でいることによる寂しさを感じやすければ、よりその傾向が強いでしょう。寂しさを感じるがために人との繋がりを求め、結果的に自分との対話ができなくなってしまいます。これが思考停止へと繋がって行くのではないでしょうか。考えることは一人でいる時に最も効率よく行えます。物理的な孤独と、精神的な孤独を意識的に持つことが、様々なことに気づく良い方法なのだと思います。そしてそれが自由になるために必要なことだと思います。

絶対的な幸福と相対的な幸福の違いを説明する

幸福には二種類あると思います。絶対的幸福と相対的幸福です。

 

絶対的幸福

親がよくいう、いい学校に行っていい会社に入って、いい暮らしをするというのが絶対的幸福です。

誰もが「それは確かにいいよね」と思う、全ての人が目指すべきだと錯覚されている幸福です。

そういう生き方をしていればとりあえず安心できた時代があって、その頃の考えを捨てきれずに、そういう幸福があると思い込んでいます。

絶対的に「これがいい」と言われる幸福の一例です。

事業に成功して大金持ちになることも絶対的幸福と言えます。

世間一般にいいな、と思われている成功ストーリーのようなものです。大多数の人が、そうのぞんでいるであろう未来、そして安定して苦労しなくてもいい未来です。

結婚して家族を持つとか、一般的に良いとされているものです。

それは歴史的に大多数の人が選んで(選ばされて)きた選択肢なのかもしれません。

実績のある幸福です。

 

相対的幸福

一方、相対的幸福は、今より良いものを得られることへの幸福です。

今もし給料が平均賃金以下しかもらえていないのであれば、それを平均以上にできれば幸福感が得られる人がいるかもしれません。

また、今より人から大切に思われるのであれば幸福を感じられるかもしれません。

今考えられる中で、こうなったら自分は今より幸福を感じられるだろうという未来です。

今よりもどんどん大変な仕事を任されて自分がスキルアップしていくことに幸福を感じる人もいるかもしれませんし、そんなことより、今よりも仕事が減って、自宅で自分の趣味に没頭する時間が増えることで幸福感が増す人もいるでしょう。

人によって違う、今の自分からして何が好ましいかで幸福の事柄が変わります。

 

どのように幸福を目指せばいいか

どちらの幸福を信じますか?

どちらを信じたにせよ、人は幸福になれるのかもしれません。

しかし、絶対的幸福を目指すのであれば、相対的幸福を積み重ねた先にあるべきだと思います。

お金をたくさん持っていることが幸福に繋がると考えていないのに、お金持ちになることを目指したり、人といることがそこまで好きではないのに、結婚をしたいと思ったりしても、それは本末転倒です。

錯覚によって道を踏み誤る可能性があるのです。

なので、まずは相対的に自分はどうなりたいのか、次のステップを考え、今の自分をどう変えたら幸福なれるのか、

ある意味近視眼的な幸福をまずは考え、その延長線上、中長期的な時間を経た上でどうなっていたいのかを考えることが、自分だけの絶対的幸福になるのではないでしょうか。

自分が実際に一歩一歩道を選んで進んで言った結果、訪れるであろう未来です。

どこかにゴールがあるのではなく、目の前の幸福を追うことでたどり着く場所です。

もちろん目の前のものを追うだけでは物事を見失いがちなので、自分の求めるものがわかったら、それについて計画を立てるべきです。

計画を立ててそこへ向かって進んでいくことで、最大限の幸福が訪れるのではないでしょうか。

親であれば自分の子供に、より安定して、より安心な絶対的幸福を求めてしまいそうですが、

自分で課題を見つけ、それを解決することで幸福になるという、相対的幸福の存在を伝えることもできるように思います。

世間一般的な成功に惑わされることなく、自分だけの成功を探して進むことを教えることができると思うのです。

自分だけの世界を見る

他人とは?

何をやっていても他人が気になることがあります。なぜ気になるのか、全然わからないのですが、他人のことを気にすることは他人に期待することを意味します。

特に、SNSが発達した現在では会ったこともない人に期待するということが増えてきていると思います。

しかし全く見知らぬ人に期待することほど疲れることもないでしょう。

顔が見えないのですから、どんな趣向を持ち、どんなことを求めているのかなんてわかりません。

人というのは千差万別、それぞれが異なる興味関心を持っています。

こちらがどうしたらいいのかなんていうことはわかろうとしてもわからないし、わかったと思っても、それは予想でしかないのです。

なのでそういった大衆を相手にすることは分が悪いでしょう。

むしろ人間の制御できない自然と同じ、と割り切るくらいがいいでしょう。分析すればわかるかもしれないけど、結局は制御できない存在であると。

 

自分を見失わないための手段

理想論ですが、あまり周りを見すぎずに自分も見つめつつ、自分のやりたいように物事を進めていくことが良いのではないでしょうか。

童心に還れるようなものを見つけてそれに没頭し、追究していく。それをもしかしたら何処かで発信するといいのかもしれません。

あくまで記録や自分の紹介の一環として。

むしろあまり多くの情報に触れすぎずに、自分の信じたものだけを追い求めるような姿勢も時には必要です。

環境の変化に敏感な人は周りの影響を受けやすいのです。

なのである程度コントロールして触れる情報を限定した方が集中できます。

多くの情報に触れ、多くのことを考えることは大切かもしれませんが、時に情報の波にのみ込まれて、身動きが取れなくなってしまいます。

様々な人が多種多様なことをある程度の熱量でこなしていった結果を出力し、そんな情報に触れることで大いに刺激を受けることでしょう。

しかしブレやすい人はそこでその熱量に押し切られてしまいます。

自分をこう変えなくてはいけないのではないかと思ってしまいます。

そこで思いとどまり、自分の向かう方向を見失わないようにすることが、重要です。しかしそれにはある程度の準備と、エネルギーが必要なように思います。

そのような準備をするよりも、いっそのこと周りのものを見ない、くらいの方がいいのかもしれません。

自己を保つための手段です。

自己防衛とも言えますし、それが自分の考えと行動にある程度確信を持てるようになるまでの技術であるとも言えます。

特にブレない軸のようなものがわかるまではそういったことを意識的にやる必要があるでしょう。

 

自分の目で確かめたいこと

まずは自分が気持ちいいと思えることを探します。

これをやっていると気持ちよくて、またやりたくなる。

気持ちいいポイントが何かを見つける。

特にいいのは続けることで得られる快感です。

例えば、ブログを書くことが気持ちいいとか、自分の考えをまとめることが気持ちいいとかでもいいと思います。

そこには「誰にも読まれなくても」という条件がついた方がいいように思います。

本当に10年以上毎日自身のことをブログに書き続けている人もいますが、それは本当に書くことが気持ちいいのだと思います。

書くことがなんでこんなに楽しいのか、ということを説明できるかもしれません。

 

それが何かのメリットになるのかと言えば、なんとも言えないところはあります。

メリットがあるのかもしわかりません。

しかし、消耗しないと思います。

楽しくてやっているので、疲れきることはないでしょう。

そこで自己を磨けばいいのだと思います。

できること、楽しいことで自己を磨く。

それが何に役に立つのか、わからないかもしれません。

しかしそれがわからなくても、そもそもがやりたくてやっていることなので、自分の成長ということも二の次にできるのだと思います。

何か自分ができることが増えたらいいなというプラスアルファくらいの気持ちで、自分の世界に入り込みます。

そこにどのような世界が広がっているのか、自分の目で確かめればいいのです。

自分の目で確かめたいことを見つけるのです。

 

 

 

家を買うのかそれともライフスタイルを買うのか

家を買うというよりは

家を買うというのをかんがえると、とてもじゃないけどモチベーション上がらず、思い腰も上がらなかったのですが、自分のライフスタイルを一新する一つのステップ、選択肢の一つとして家を買うことも含めてもいい、と感えると幾分力も抜けて考えられるようになりました。
家を買うというと、何か固定化される気がするし、長い間負債を払い続けなければいけないというマイナスのイメージがかなりつきまとっていましたが、ライフスタイルを自分の趣向に合わせて変えていくことはなんらネガティブなイメージはありません。
その中で、自分はどのような環境で暮らしたいのか、自分はどのようなところに住んで、どのように生きたいのかまで考えるとなると、逆に楽しくなってくると思います。
家を買うことが自分にとっていいことなのかどうか、根本から考えるのです。

多様な生き方からどれを選ぶか

生き方はどんどん多様化しているし、よく言われるような終身雇用の崩れや、社会保障への不安などから、いい意味で収入や安定に頼らないような柔軟な選択肢まで出てきているよう見受けられます。
たとえば週に3日だけ働いて、それ以外の日は山の付近?に格安で購入した家を修復しながらそこでくらいしている人もいます。
シェアハウスを開いたり、狩猟やシェアの文化の中で生きている人もいます。

toyokeizai.net

そのような実験的とも言える生活に身を投じる必要はないと思いますが、必要性に応じて、自分の野望や趣向や欲望に応じて、何が一番良いのか、考えた結果そういった選択をしたのではないでしょうか。
もちろん彼ら彼女らもその生活が自分にとって最適であるという確証は何もないのではないかと思います。
なんとか経済的にやりくりできるような選択肢を自分なりに探し、そしてその中で自分のライフスタイルを形作っていく。
何度でも繰り返しライフスタイルを練り直す。
どの人も、そうなのではないでしょうか。
経済的(というか生活インフラ的に)に立ち行かなくなれば路頭に迷い、自由もきかなくなって生きるだけで精一杯になってしまうと思います。
そこをギリギリ以上のラインでどのように保ちどのように柔軟に生活していくのか。
それは仕事というものをもしかしたら持たなくてもいいのかもしれませんし、企業に属して働き続けることが必要なのかもしれません。
それも自分の納得のいくものを探し続けたいと思います。

こんな問いが浮かんだら

そんな多くの選択肢、または、もちろん誰もやっていないような生き方を考えるということも含めて、「どう生きるか」の再設計を行う必要性を感じるときが多々あります。
それは今の仕事を換えたくなったときなのか、子どもが生まれたときなのか、それとも大きな自然災害が起きたときなのか。自分を取り巻く環境の変化から影響を受けて自分の考えが変わる瞬間があります。
そういう時に「どう生きるか」という問いが浮かんでくるのです。
(もはや家がどうとかいう話でもないのですが)とりあえずは、盲目的に家を買うということを前提にするのはやめて、自分と自分の家族のライフスタイルをどのようにしていきたいのか、どう設計するのか、を考え、そこに自分たちの金銭的、時間的、人的資産を投資し、変化させていくのか、変えていけるのかを模索することから始めてみるのがいいと思います。

好きなことを仕事にするかどうかの判断基準

やりたいことと好きなこと

「やりたいこと」と言いますが、やりたいことを仕事のしている人ってどのくらいいるのでしょうか。
むしろやりたいことってなんでしょうか?明確に答えられる人がいるのでしょうか。
これがやりたいからこれを仕事にしているんだ、と言っている人はほんと起業している人以外は見たことがありません。
もちろん好きでこれをやっているという人はいると思うのですが、自由意志を振りかざしてなんでもやりたいと思ったことができる仕事はこの世にはありません。
相手がいてその相手の欲しいものをこちらが提供することで対価を得るのが基本的に仕事というものであるし、
人の関係というのは往往にしてこちらが好き勝手にやっているだけではだめなものです。
一人の世界で粛々と行うことに関してはその限りではないので、自由に盛大に自分勝手にやればいいのですが、
やはり人が相手となると自分だけが勝手にやっていると、相手はもしかしたら困っているのかもしれないのです。
(いや、どうでもいいと思っているかもしれませんが。)

それ本当に嬉しいの?

ならばどうしたらいいのでしょうか。自分がしたいことだけやっていては誰かがどこかで困るわけです。
それを気にしなければいいと思うかもしれませんが、それで生活していけるのかどうか、心配になってしまいます。それでいいのかどうか。

仕事はある意味、自動的に巻き込まれて行く世界です。どこからか仕事はやってくるのです。
特に企業に属していれば、大体は仕事が勝手にやってくるシステムになっています。
そしてそれをこなして成果を上げれば対価を得ることができる。
何も金銭だけではなく、そこから得られるものを全て得てしまえばいいわけです。
お客さんからの感謝の言葉から達成感を得るのもいいですし、
自らのスキルを高めて行くのもいいと思います。
ただそれが自分自身で納得できるのか、「そういうものに満足している自分」に納得できるかどうかという一点。
それはやはり気にすべきところだと思います。
○○やっていて、感謝されるのは嬉しいんだけど、なんか違う、とか、
それをやっていて、嬉しいこともあるのだけどなんか虚しかったり、違和感があったり、
そのちょっとした嬉しさや楽しさがあるから逆に隠されてしまっていること、 見えなくなってしまっていることがあるかもしれません。それが「本当に」嬉しいのか/楽しいのか。

その違和感のとりのぞきかた

疑い始めるときりがないのですが、それを乗り越えてどうやって行くのか。
違和感をどうやって取り除くのか。 それは、その世界(業界)にいたいかどうかを追究することだと思います。
自分はどういったことが好きで、何をしているのが一番好ましい状態なのかを知り、それに浸れる時間をいかに長くするかを考える。
例えば将棋が好きなら、1日の何時間将棋について考えられていられるか、何時間将棋の世界に浸っていられるか。
人間の時間は有限であるし、仕事や家庭がある場合もあります。どんどん自分のために使える時間は減っていきます。
仕事から帰ってきて、家族と過ごして、さあ自分の時間だ、という時にはもう眠くなっています。
無情なもので、自分勝手にできる時間というのはごく限られているのです。
それならば、いっそのこと仕事でも少なくともその好きなことに関するなにがしかに触れていられるようにしたい、と思うわけです。
いくら身動きがしづらくても、その世界に属して、その世界のことを考える時間が増えるということは、好ましいと思います。
好きなことに触れていられる時間をどれだけ長くできるかという基準で考えてみると、
仕事という人生の大半を占めるような時間はフロンティアに思えてくるわけです。
少しでもそういう時間を増やしたい、という渇望にも似た基準ですが、自分に対する違和感を感じているのなら希望として良いのかもしれません。一つの希望ある判断基準として。

好き勝手にはいかないけれど

仕事はあちらからやってくる(はず)なのでその世界にどっぷりと浸れるはずです。 むしろ、嫌なことに、どうしても気になってしまうから、それをやらざるを得なくなるかもしれません。
このご時世、家に帰ったらオフで仕事しなくていいなんていうことがどんどん減っていっている気がします。
メールはもちろん使っているWebサービスにもどこからでもアクセスできますからね。(クラウドってなんて便利っ!) 好き勝手にできないから、本当に好きなことは仕事ではやりたくない、というのもわかるのです。
でも好きなことをやる時間すらないのなら、
いっそのこと飛び込んでみてとにかく好きなことについて自分のリソース使っていきましょう。
自分勝手にはできないし、それがやりたいことなのかどうかもわからないのですが、やってみるしかない。